平山が40年研究しつづけてきた、川端康成。
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本
新刊『川端康成と東山魁夷―響きあう美の世界』
芥川賞作家 岡松和夫氏からの書評 共同通信より:
『川端康成と東山魁夷』平山三男・水原園博ほか編
「往復書簡から深い敬愛」
岡松和夫/作家
川端康成と東山魁夷との交友がどのようなものであったのか、この本で初めて知った。小説集などの装画、装丁が作家気に入りの画家に依頼されることは多いと示知していても、この本で紹介されているような小説家と画家の交友はまれと言ってよいだろう。
川端康成には戦前の古賀春江との交友という注目すべきものがあるが、それは青年期のものである。古賀は1933(昭和8)年に亡くなっている。東山との交流は、それに比べて第二次世界大戦後のものである。二人はそれぞれの分野で時代の先頭に立つ芸術家だった。
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川端邸を東山が初めて訪問したのは1955年、川端五十六歳、東山47歳の年だったという。二人の間には互いの芸術への深い敬意があったと思われる。それ以後17年間、熱い交友の続いたのがその証拠である。二人の交わした書簡は、川端家に60通、東山家に40通あるという。この往復書簡が第一章の中心である。いや、 全体の中心と言ってよい。
川端と東山とに共通する美への信仰は戦争をくぐり抜けて結晶したものである。その辺りのことを編者たちは、川端の文章あるいは東山の絵や文章を通して、また自分たちの解説の文章を通して読者に伝えようと努力している。
東山が風景のなかに「輝く生命の姿」を発見するのは、なんと、一兵卒として熊本で戦車に爆弾を抱えて肉弾攻撃をする訓練を受けていた日である。ある時、市街の焼け跡の整理に行き、熊本城の天守郭跡から肥後平野や丘陵をながめた。その向こうに「遠く阿蘇が霞む広闊(こうかつ)な眺望」を見知った。「あの風景が輝いて 見えたのは、私に絵を猫く望みも、生きる望みも無くなったからである」
この通り東山はすぐれた文章家でもあって、絵に添えられた短い文章であっても、東山らしさが際立っている。とりわけ川端が自死した後の追悼文「星離(わか)れ行き」は川端への敬愛の気持ちが頁っすぐに出ていて、読む者の胸をうつ。(了)